イスラエルへは年に三回くらい出張で来る。
もう10年は来ているから、単純計算でも30回を越す。あの偏執狂的な出国検査も最初のうちはアタマにきたけど、最近は受け流す方法を覚えた。人間どんな環境でも慣れるもんだ。そう言ったのは馴染みのパレスチナ人のドライバー。
何人かの彼女を海外出張に連れて来たけど、今の彼女は本当に特別だ。歴史と美術にはいっぱしの知識と審美眼を持っているつもりの僕だが、全く歯が立たない。彼女、大学で西洋美術史を専攻したのに、西洋美術は大嫌い。ルネッサンス美術やベネチア絵画を語らせたら、ベニスの認定ガイドも降参。でも今はイスラムとビザンチンに夢中。
この前、ちょっと連絡が取れなくなったと思ったら、ボスニアの首都サラエボに一人で行ってた。
「サラエボこそ真のコスモポリタン都市よ!」
大好きなジョニ赤のロックを片手に、この話を始めるともう止まらない。飲めない僕はうなずきながら朝まで付き合う。でも最後には僕の肘枕で寝てしまう。
去年のイェルサレム出張に初めて彼女を連れてきた。今までの彼女をイェルサレムに連れてきた事は無い。いや自分から行きたいと言ったのは後にも先にも彼女が初めて。それ以来、イエルサレムの旧市街や旧約聖書の遺跡巡りは、イスラエル出張の僕の密やかな楽しみになった。
彼女、何処で習ったか、イスラム教の作法や、正教の作法も完璧に身に付けている。昨年、モンテネグロの絶壁のオストロノグ修道院を迷い込むように尋ねたとき、洞窟の奥にある聖人の遺体、そして正教の司祭に向かい、彼女はセルビア語、セルビア正教の完璧な作法で祈りを行った。大変な女性を彼女にしてしまったのだと、僕は一瞬、腰が抜けた。
一緒に仕事をしているヘブライ大学の教授は、本当に家族思いで一途。とても「彼女を連れてきてます」なんて言えない。これがイタリア人のMITの教授だと、還暦近いのに、僕らとの会合にアンジョリーナジョリーをさらに知的にしたような「秘書」を連れてくる。ベニスで打ち合わせを行った時、先生におそるおそる「彼女を連れてきてるんですけど」と言ったら、まるでイタリアオペラのテノールのような声で大笑いされた。
さて、イェルサレムの旧市街、その大部分を占めるイスラム教徒エリアには、地元のユダヤ人は絶対に足を踏み入れない。僕ら観光客は何処を歩いても問題ないけど、一度、その先生と歩いていたら、パレスチナ人の悪ガキどもがわざとぶつかってきたり、遠くから石をなげたりした。
イェルサレム出張の度に旧市街デートを行い、長い黒髪と日本人離れした容貌(ロシアとのクォーターであることは付き合って1年後に知った)の彼女と、これまた日本人にしては濃い風貌の僕らが、ケバブ屋、ナッツ屋、土産物屋のアニキたちと仲良くなるのに時間はいらなかった。
今回の出張で、二泊三日程度なら小旅行に行ける時間ができた。エジプトに行くか、ヨルダンに行くか迷ったけど、ヨルダンの首都アンマンを中心に行ってみようという事になった。
エジプトへは陸路で時間がかかるという事、二泊三日では短すぎるという、消去法で出た結論である。
イェルサレム⇒アンマンは陸路で50Kmくらいしか離れていない。第二次世界大戦前は車で一時間で着いたそうだ。今は、検問やらなにやらで、3時間はかかる。
アンマンは驚くほど小奇麗な、都会だった。
イスラエルのどの都市よりも整備されている。街を歩く人々の雰囲気にはイスラエルのパレスチナ人の持つ、不安や暗さなどは微塵も無い。
アンマンでは一番のル・ロワイヤル(Le Royal)に泊まった。入り口で空港並みの荷物チェックを受けたが、足を踏み入れると、日本の帝国ホテルよりも豪華な、パリのリッツを思わせるような格式あるホテルだった。
ドアマンからレストランのボーイ、レセプション、コンシェルジェに至るまで、まるで一昔前の恋愛映画のオーディションで選んだのでは?と思うくらいの美男・美女揃い。これが偶然のハズが無い。クラブフロアのボーイに至っては、男の僕でも見とれて言葉を失うくらい、まるでギリシア彫刻に命が吹き込まれたようだった。
夜、ホテルのコンシェルジェに「アンマンで一番美味しいアラブ料理の店」に予約をお願いした。これまた美女のコンシェルジェは「アンマンには世界一美味しいアラブ料理のお店が三つある」といって、そらで電話をかけ始めた。そして二番目にかけたところでそのレストランに予約ができた。
左利きのコンシェルジェが「タクシーの運転手に渡して」と書いたアラビア語のメモは、読めない僕らにもセクシーと思えるくらいの達筆だった。アラビア文字にも書道がある、という話をいまさら思い出した。
そのレストランはタクシーで5分もしない、アンマンの中心部にあった。入った瞬間、席に通されただけで、この場所が特別であることはすぐにわかった。そこで食べている人々が皆、おだやかな幸せのオーラに包まれ、充満している。
アラビア料理の前菜は、トルコからエジプト、モロッコに至るまで、基本は共通している。ヒヨコ豆を潰して、オリーブオイルと混ぜた、ペースト、これをフムスと言うが、それを基本に、あとはサラダのバリエーションがまず4皿~6皿くらい出てくる。
韓国料理のお店に行くと、いろんなキムチが小皿で出てくるが、あんな感じを想像してみるといい。
当然だけど、その小皿の一つ一つが、今まで食べてきた僕らの「アラブ料理」の概念を超える、素晴らしいもの。ロイヤルホストで食べるフレンチ料理もどきと、パリで食べるミシュラン星つきくらいの差がある。
それらをフレッシュなオレンジジュースとか、グレープフルーツジュースとか、レモネード(ミントが砕かれて入っていて超美味)飲みながら、さらにメインメニューを決めることになる。
そこで、僕らは一瞬、言葉を失った。
キレイに印刷されたメニューの脇に、一生懸命書いたペン書きの料理名。
IRAQI CUSINE
そして幾つかの料理名が続く。
二人だけの、ヨルダン旅行、昼間のローマ遺跡の片隅をバチカンに見立てて、二人でキスした事。バグパイプの軍楽隊に会わせて、二人で行進してみせたり。
そんなこんな、全てが一瞬にして吹き飛んだ。
「なぜここにイラク料理があるのですか?」
店で一番優しく、しかし一番威厳のあるおじさん(後にオーナーと判明)は、優しくも瞳の奥に、悲しみとも怒りともつかない光を隠して言った。
「現在、イラクの料理人は、バグダットには一人もいません。
彼らは、ここアンマンとダマスカスにいます。
バグダットは世界で一番古い文化都市のひとつです。
その料理の歴史を現在のような状況で消してはいけません」
かみ締めるように伝える一言一言が僕らの胸に響いた。何も怒ってはいない、絶望でもない、無意味な希望を込めてるのでもない。ただ、事実を述べているだけ。
マイミクHiroさんに紹介され、見に行った一人舞台、
[阿部一徳の、ちょっといい話]
「僕がもしイラク人だったら」
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が僕の頭に鮮烈に蘇った・・・
■■本日記は70%の真実と30%のフィクションです■■
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