Friday, October 26, 2012

オストログ修道院から資本主義を考える

モンテネグロから帰って・・・ここ数日、まじめに資本主義の本質など考えてしまった。 

モンテネグロの山中、断崖絶壁のオストログ修道院に登り、最後に一番奥のにある聖人の遺体とイコンに、お祈りをし、接吻してきました。何か得体の知れない、しかし、本当に魂が震える感動と清清しさの正体は何だったのだろうか? 

東欧とか回っていると(インドとかの田舎もそうだけど)、「資本主義=お金による価値観測定」に拠らない、別の価値観の軸がまだ確かに残っていることを体感できる。 
イタリアとかスイスとかでは、観光地化=観光価値の資本価値による順位付けがもう隅々まで行き渡っているからね。 

東欧やインド、はたまたアラブの国々でも、宗教的な価値は資本に交換不可能という、宗教発生以来この数千年にわたり当然だったことを身体で感じる。 
その、あまりに当たり前な空間に身を浸すことがこれほど心の洗濯になるとは・・・本当に皮肉というか、何と言うか。 

本来なら、多様な価値観の軸の一つである「資本」が、他の全ての価値観を喰らってバケモノになり、その過程で、私たちの社会、コミュニティーの通奏低音である、基本的な人間同士の信頼とかまでが、「リスク管理」の名目で、どんどんオカシナ方向へ進んでいる。 

資本に交換不可能な価値観を無理にお金に換えようとして、「リスク」の名の下に管理できたと思っていても、それはあくまで「錯覚」であり「幻覚」でしかない。 

「千と千尋」の顔ナシは、資本主義そのもの。全ての価値観を喰らったあげくに、身動き取れなくなって憤死する気がしてならないね。 

こういうバカな幻覚社会は、積極的に破壊したい気分。 

賛同者募る。(笑)

Originally Posted 2006年01月12日

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