Sunday, November 4, 2012

寛容と融合、宗教芸術の頂点

二週間ほどベニスの陸側の街、トレヴィゾで仕事。土日の休みを何処でと考えてたら、金曜夜、ベニス~パレルモのチケットが、LCCで5千円。早速行ってみたよ。

パレルモ(シチリア)はローマ帝国の崩壊以後、イスラムとキリスト教徒が1000年に渡り、支配の抗争を続けた土地。安定と不安定な時期を交互に繰り返しながら現在に至る。農業、水産業とそれなりに豊かな土地ではあったけど、18世紀からの産業革命には取り残され、シチリア=貧困は20世紀になってもイタリアの常識だった。

他民族に蹂躙され続け、収奪され続けた民族の悲しい性として、地元の住民は血の結束を誇り、裏家業を牛耳るマフィアとしてイタリア、さらには移民としてNYの中心としてなる。映画ゴッドファーザーで名をはせたNYのマフィアはほとんどがシチリア出身。映画の中でもシチリアの美しい風景はNYという汚い街の対比として描かれていた。

で、今は、ベニス~パレルモは五千円でひとっ飛び。地中海有数の観光地として、沢山の観光客で賑わう。
そして、訪れたましたよ、パレルモ、ノルマン王宮のパラティーナ礼拝堂!

そんな軽い気持ちで入った瞬間、身体の平衡感覚に変調をきたしました。

幾何学文様(数学)の中に神を見出すイスラム教美術と、イコン(象徴)としてのモザイク絵画に神を塗りこめたビザンチン美術の、荘厳なまでの融合した姿。宗教建築には敬意を表し、滅多に写真を撮らないのだけど、ここだけは、あまりの凄さに、心の目だけに収めることの不可能さを悟り、おそるおそるシャッターを切らせてもらいました。 

正面には、今まで見た中で最高度の完成度と超密さのモザイク画 



モザイク画の上、天井は明らかイスラム彫刻によるフラクタル幾何学構造 

身体目線を埋め尽くす、幾何学模様

眩暈がするような幾何学模様が空間を埋め尽くす

現代の我々でも、これほどの身体感覚の変容を体験をできるものが、12世紀の建築物とは、信じがたい。

映画もテレビも無かった当時の人々が、どれほどの衝撃を受けたかは、想像を絶するものがあります。

パレルモ、ノルマン王宮のパラティーナ礼拝堂は、ヨーロッパ宗教美術の到達点です。

Friday, November 2, 2012

資本主義のブートストラップ

突然ですが、昼休み、会社の近くの古本屋で、マックス・ウェーバーの 
『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』 
を発見。汚れてたけど、100円で売ってたので、買ってしまった。 

最初にこれを読んだのは33年前かなぁ。その時は、大学の先生の言われるまま、訳もわからずフムフム納得した記憶がある。 確か試験用に、先輩のノートを借りて内容の要約を暗記したことも・・・何を暗記したのかさえ、完全に白紙に戻ってるけどねぇ。

しかし、こうしてそれなりに人生経験もし、ユダヤ人の機関投資家と喧々諤々の交渉も経験した後で、陳麻屋の坦々麺をフーフーしながら、読んでみると、その詭弁ともいえるロジックがポロポロ見えてくる。 

後日、このテーマに関して別立てで詳しく書くけど、ひとまず結論を! 

資本主義があの時代のヨーロッパに生まれたのは、決してプロテスタントが清貧な生活態度で、倹約した結果から資本が蓄積したからではありません! 

過去3000年以上にわたって蓄積された、新大陸、インド、そして中国の富
これらを、たった50年~100年という短い期間で、ヨーロッパが収奪し尽くしたこと。

普通に働いていては、倹約しようが何しようが、絶対に蓄積不可能な富を、短期間に局所的に集中させたことで、一気に資本主義というシステムの種火が点火した。
(宇宙論的に言えば、資本主義のブートストラップが起こった!) 

さらに別の言葉で言うなら、悪魔的なほどのヨーロッパ人の強欲さが、資本主義を生み出したのですな。 

ウェーバーの本は、驚愕すべき詭弁だよ。

また、そう考えると、本日の資本主義の持つ、悪魔的な側面も非常に良く理解できるようになる。 
現代の資本家が節度を失ったとか言うけど、最初から資本主義に節度など無い!

あれ? 聖なるものを、探す話から脱線してしまった・・・

明日は、普通に戻します。

Thursday, November 1, 2012

夢の始まり、夢の終わり

ゴア、旧市街の大聖堂群を見てきた。

















16世紀から腐らないザビエル様の御遺体とも御対面。 

マドラスの聖トーマス教会で感じた、強烈な霊性とも言うべきインパクトは無かった。でも、第二次世界大戦後に全ての植民地を失ったポルトガルが、最後は流血の事態まで起こしてもこの地を保ちたかった理由は判ったような気がした。

この場所は、ポルトガルという老人にとって、熱に浮かされた「若き日々の記憶」。どんなに色あせても、絶対に捨てられない宝物だったんだね。

リスボンのジェロニモ修道院を訪れ、ベレンの塔を見た時に感じた、ポルトガルの夢の始まり。それは、マラッカでもマカオでもなく、このゴアが終着点なのだ。

リスボンの路上で買った、哀愁をおびたファドの曲たちが、なぜか灼熱のゴアで違和感無く、耳に響いた。

歳をとると、今まで空気のように自然に、周りに存在していたものが、一つ一つ、崩れて、消えていく。
その喪失感の巨大さに立ちすくむ日々に、自分という存在の儚さを知ることになる。

アルファマの路地裏で聞いたファドが、自分の心の空白に、何の違和感もなく入り込んだ理由が、今、判った。